イサム・ノグチ庭園美術館、受付。
この美術館を訪問する際は、閲覧希望日の10日ほど前に閲覧希望日時を往復はがきにて郵送する。
開館日は火・木・土の午前10時、午後1時、午後3時の3回のみ(定員あり)。
自分からイサム・ノグチを観に行こうとしなければ、扉は開かれない。
でも、扉を開きさえすれば、イサム・ノグチだけの世界が待っている。
それは私にとってたまらない空間だった。
庭園美術館は二つのエリアに分かれている。
彫刻エリアと庭園エリア。
学芸員の方の説明を受け、どちらも30分ずつ自由に見学ができる。
エリア内は写真撮影不可なので、エリア外から撮影した写真を。
彫刻エリア。
野外に置かれているのは、全て未完成の作品。
ここで創作活動していたノグチは、晩年これらの作品が完成されないだろうことを予想し、
展示物として一つ一つ考え、配置を決めていったそうだ。
未完成の作品はどれも荒々しく、ものすごくエネルギッシュだった。
完成されていないものだけがもつ野蛮さが、
真夏の日差しとともにじりじりとココロとカラダに焼きついていきた。
完成品はどんな作品になったのだろう?という想像さえ、完全に拒んでいく。
それでも未完成作品から目が離せないのは、
どこかに、ほんの一部かもしれないけれども、
ノグチのスピリッツがそこに彫り込まれているからだと思う。
蔵の中は作業場と完成作品が数点。
完成作品の孤高なまでの美しさは、言葉にできないほどだった。
他者を誰一人として寄せ付けない、そこに美として存在している作品たち。
作り手であるイサム・ノグチの声を聞く、対話するという生易しいものでは全くなく、
イサム・ノグチが考える美しさはこれだ!というぶれることない信念を見せつけられた。
うちのめされるほど格好良かった。
野外の暑さとはうってかわって、ひんやりとした空間の中で、
感性がどんどん研ぎすまされていき、どんどん内へ内へと入り込んでいき、
自分自身と対峙している私がいた。
「私の考える美しさってどんなものなのだろう?」と。
きっとこれは永遠の問いで、生きている限り続く問いなのだと思う。
春と秋に暮らしていた家(ちなみに夏はイタリアで、冬はニューヨークで過ごしていたとのこと)
庭園エリア。
イサム・ノグチが作った庭園と、春と秋に暮らしていた家を外から観賞することができる(県の重要文化財指定を受けているため、中には入れず)。
「私の母を庇護してくださった方達に捧ぐ」とノグチが捧げた庭園がものすごく美しかった。
ブラック・スライド・マントラを思い起こさせるような作り上げた山を中心に、
石や岩を小川や滝にみたてて流れを作り、
カルフォルニアから持ってきて移植したユーカリが、マザーツリーのように生い茂り、
一瞬自分がどこの国にいるのかわからなくならないような感覚に陥る。
自分のアイデンティティはどこにあるのか?と問い続けてきたノグチにとって、
もしかしたらこの庭園は一つの答えかもしれないなと思った。
ノグチが死の直前まで愛した卵形の石がある。
「私が死んだらこの石を割って欲しい」との遺言を残して。
彼の愛する仲間がその石を割り、
今はこの庭園を見守るように山の頂きに鎮座している。
この石をこの場所に置くことが彼の意思かどうかわからないけれども、
ここよりふさわしいこの石の置き場所はここ以外にはないだろう。
初めて訪れたイサム・ノグチ庭園美術館、
おそらくこれから、何度も何度も訪れるようになるだろう。
そんな予感を胸に抱き、この場所を立ち去った。
私だけのサンクチュアリ。
いつでも彼の魂にふれることができるように。