ハーフ&ハーフ

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昨年末、35mmフィルムで二コマ撮影できるハーフサイズカメラを購入した。

フィルム高騰の今、1枚で2コマ撮れるのはお得感たっぷり。

また小さく軽いのでシャッタースピードが遅くてもぶれることが少ないと、店員さんの話。

縦長のファインダーはiPhoneを思わせ、スマホで撮っているような気軽さが感じられた。iPhoneで撮る代わりに、ハーフサイズカメラで撮る。これは習慣にすればいいだけのこと。撮れば撮るだけ私の血肉となる。

 

ようやく1本目を先日撮り終え、現像から戻ってきた。

コマのカウントなんて全然していないのに、はからずもこんな素敵な偶然が起きていた。

グラノーラ

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2016年3月5日のてしごと、「グラノーラ」。

これはいつも作り続けているもの。食べては作り、作っては食べる、その繰り返し。私の暮らしになくてはならないものの一つだ。

 

今はヨーグルトと一緒に食べることが多いけれど、子どもの頃は牛乳をかけて食べていた。歳を重ねたからこそなんだか子ども時代に戻ってみたくなり、この日は牛乳をかけて食べた。柔らかくしっとりとなったグラノーラ、食べ終わった後飲み干した牛乳は、懐かしい甘さに満ちていた。

レモンカード

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2016年3月5日のてしごと、「レモンカード」。

この日、歳を一つ重ねた。気になっていた企画展を観に行こうかと思っていたが、なんだか疲れが溜まっていたのか眠くてたまらない。それなら今日はうちにいて手を動かそうと思った。作り慣れたものと、今シーズン作り始めたものと、新しく作るものと。作り終えてみると、こうやって手を動かしている方がよっぽど私の誕生日にふさわしい気がした。

レモンカードはずっと作ってみたいと頭の片隅にあったのだが、なかなか作ることができなかった。どうしてだろうか?手間がかかると思ったのだろうかか、それとも作った後どう食べていいかわからなかったからなのだろうか?作ってみると思いの外簡単だったし、これが正しい食べ方なんというのは実はどこにもない。そんなことはわかりきったことなのに、不思議だ、なぜだかそう思うことがある。自分で自分に枷をかけるってきっとこういうことなのだろう。そしてそれは私の思い癖なのだろう。

歳も一つ重ねたことだ。この枷というものから、私自身が持つ思い癖から、今以上に自由になろう。そして、今年もていねい手を動かして行こう。

初めて作ったレモンカードは、トーストにたっぷり塗って食べた。爽やかで透き通った味がした。

 

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髪の毛をばっさり切った。

久しぶりのセシルカット、さっぱりしたというよりもどちらかといえばすっきりした。

おそらく年末年始から髪の毛を切りたくてたまらなくて、そして切るのならセシルカットをしたくって、ようやくその願いが叶ったからかもしれない。

そして髪の毛を切ったら、顔のパーツが妙に気になり始め、お化粧をきちんとしようと思った。今まで髪の毛で隠せていたところがそうもいかなくなり、あらわになったせいだ。絶対そう思う。

そう思ったのだが、持っていた化粧品はほぼ使い終わっていて手元になく、久しぶりに化粧品を購入した。ラメが効いた青と緑のアイシャドウはその中の一つ、春の新色だそうだ。「透明感がでますよ」と試しにつけてくれたお兄さんはそんなことを言ってはいたが、はたして私の化粧の腕前でそんなことができるのだろうか……?日々、鍛錬は続く。

バナナのパウンドケーキ

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2016年2月11日のてしごと、「バナナのパウンドケーキ」。

妹夫婦のお誕生日お祝い会のために焼く。

1月から試作を続けているこのケーキ、今回はようやくバナナの量が確定した。前回焼いた時は入れ過ぎてしまったのか、バナナ、バナナしていたが、今回はそんなことはなく、いいバランスになった。上にバナナを飾り、粉糖をかけるのも、見た目がきれいになってよい。これは採用することにする。あとは、砂糖の割合と粉の割合。バナナの量ばかり気にしていたのか、今回焼く時は全く気にならなかったのに、一口食べた途端に、砂糖と粉が気になり始めた。このパウンドケーキはもっと美味しくなるはず。そしてその分量が決まったら時に私のレシピが完成する。

一つのものを作ることにはまると、ひたすらそれだけを作る傾向が私にはある。それはただ単純にそのものを作ることが好きというのもあれば、今回みたいにレシピを決定するために時間をみつけては同じものを作る場合もある。どちらにもいれることは、作り続けることは大事だということ。何度も、何度も、身体に手順をしみこませるために同じものを作る。そうするとふとした瞬間に「ここはこうしたほうがもっと美味しくなるのではないか?」とぱっとひらめく。直感が働くのだろう。そうなると、そのことばかりが気になって、早く同じものを作りたくてたまらなくなる。作る、手を動かすという本能がめきめきと疼き出す。

妹夫婦を交えてこのケーキを食べる頃には、バナナの上にかかった粉糖だけがきれいに溶けていた。バナナの色が表面に現れ、生地の焼け具合、粉糖の白さと暗い色と明るい色の対比がとてもきれいだった。

粉糖は食べ始める3〜4時間くらい前にかけるとよい。この一文もレシピに追加することとする。

 

グラノーラ

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2016年1月30日のてしごと、「グラノーラ」。

24日にようやく両親にグラノーラの作り方を伝授したら、自分の分も焼きたくなり。日をおかずに作った。一つのものを作ることにはまると、長い間同じものを飽きもせずに作り続ける。何度も何度も、作り方を変えたり、材料を変えたりして、少しずつレシピをアップデートさせていく。その過程がおもしろい。また、ふとしたきっかけで作らなくなるものもあるのだが、また何かの折に作るとそのものをとても好きな自分に気づく。今回、私はグラノーラを作るのが好きなのだと改めて実感したてしごとだった。

グラノーラ作りは自由だ。工程を変えることはほとんどないのだが、材料に何を入れても良いところが気に入っている。うちにあるものだけで作るのもよし、これは外せないと材料を新たに購入するのもよし。自分の思いのままに、その時の気分で作れるのが良い。少し視点を上に持ち、今の自分の状態を俯瞰しながら、その日のグラノーラをコントロールする。その感覚がとても心地よい。その感覚にのめり込めばのめり込むほど、手がどんどん自由に、リズミカルに動き、美しい焼き上がりとなって自分に返ってくる。そして、口に入れた瞬間こう思うのだ、私は自由なのだと。

グラノーラ

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2016年1月3日のてしごと、「グラノーラ」。

両親へのお年賀。一昨年、母が入院した際に父がグラノーラにはまった。なんのことはない、今まで食べられなかったヨーグルトがグラノーラにを入れることによって食べやすくなり、苦手を克服できたからだ。それ以来、市販のグラノーラを買ってきては、やれ、甘さが足りないだとか、果物が足りないだとか、ぶつぶつと言い放つ。そしてやっぱり私が作ったものがいいという。それもそうだ、様々な種類のナッツを入れるし、市販のものとは比較にならないくらいたっぷりの果物を入れる。不思議なことに私の味が、いつしか実家の味になっていた。

グラノーラが食べたいと父がずっと言っていた。他にも作りたいものがあるからなと聞き流していたのだが、お年賀の代わりにとようやく重い腰をあげた。ちょうど妹夫婦も来ることだし、お土産にもたせてあげるのもいいかもしれない。

金額のはったものをプレゼントすることはなかなかできないが、こうやって私の手を通して作ったものならプレゼントすることができる。それも幸せの形のひとつではないかと焼きあがったグラノーラをみてふと思った。

そして今年こそ父にグラノーラの作り方を教え、実家の味を作っていってほしいと願うのであった。

 

バナナのパウンドケーキ

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2016年1月2日のてしごと、「バナナのパウンドケーキ」。

 

元旦に妹夫婦と一緒に天皇杯を観に行ったのだが、チケット代の代わりにバナナのケーキを焼いて、3日の家族新年会の時に出してほしいと頼まれた。

バナナを主材として扱う時はブレッドにすることが多いのだが、年の初め、なんだか景気良くバターを使ってみたくなり、パウンドケーキに仕立てた。もしかしたら新しい焼き方を模索したかったのかもしれない。2016年初めてのてしごとは新しいことへのチャレンジでスタートした。

しっとりした状態で食べたいため、食べる1日前に焼く。

焼き上がりはいつもの私が焼くパウンドケーキだが、小麦粉の量に比べてバナナが多かった。バナナを食べている気分になる。バナナの使用量は要調整、卵は別立てよりも全立ての方が似合うかもしれないとノートにメモする。

2016年の私のてしごとは、どんな風に彩られていくのだろうか?同じものを繰り返し作り続ける、新しいレシピを作り上げていく。どちらにせよ、今年も手を動かしながら暮らしていくことに間違いはない。