2015年10月31日のてしごと、「角切りりんごのコンポート」。 りんごのてしごとはジャムしかしないけれども、 何か違うものも作ってみたい!と思ったとたんに、 このレシピが真っ先に目の中にぽんと飛び込んできた。 何度となくこのページをめくっているはずなのに、 興味がないときは全く目に入らず、 興味が出たとたんに私の中の何かが引っかかる。 アンテナを張るということは、きっとこういうことなのだと思う。 レシピでは甘味はグラニュー糖でつけることになっていたが、 もっと甘味を優しくしたいと思い、メープルシロップに変えた。 思った通りの出来上がり、ヨーグルトに添えるのもいいけれど、 ホットケーキの中に練りこんで焼いてもいいと思った。 りんごの世界が広がり始める。 おもしろい。 このレシピの隣には、洋酒を使ったコンポートのレシピも掲載されていた。 うちには洋酒というものが常備されていないため、…
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角切りりんごのコンポート
2015年10月31日のてしごと、「角切りりんごのコンポート」。
りんごのてしごとはジャムしかしないけれども、
何か違うものも作ってみたい!と思ったとたんに、
このレシピが真っ先に目の中にぽんと飛び込んできた。
何度となくこのページをめくっているはずなのに、
興味がないときは全く目に入らず、
興味が出たとたんに私の中の何かが引っかかる。
アンテナを張るということは、きっとこういうことなのだと思う。
レシピでは甘味はグラニュー糖でつけることになっていたが、
もっと甘味を優しくしたいと思い、メープルシロップに変えた。
思った通りの出来上がり、ヨーグルトに添えるのもいいけれど、
ホットケーキの中に練りこんで焼いてもいいと思った。
りんごの世界が広がり始める。
おもしろい。
このレシピの隣には、洋酒を使ったコンポートのレシピも掲載されていた。
うちには洋酒というものが常備されていないため、
まだそのページを眺めているだけだが、
おそらく、いや、確実に洋酒を買ってきて、
そのコンポートを作る日もそう遠くないはずだ。
ふわふわベレー帽
2015年10月26日のてしごと、「ふわふわベレー」。 つま先から編む靴下が完成して以来、編物熱は復活したが、自分でデザインしたものを編むまでには行かず。 そのリハビリとして、「こんな糸で編んでみたい」からの作品を編み終えた。 この帽子は、このベレー帽を編むために毛糸を一緒に買った 縫いもので生計を立てている友人の元に行くことになっている。 彼女とこの毛糸を買ったのは、2014年12月31日。 急に会うことが決まり、お昼ごはんを一緒に食べた。 手を動かすことの楽しさを語りながら食べたとんかつとシャンパンは、 今でも記憶に残っており、昨年を締めくくるのにふさわしい昼ごはんだった。 別れ際に来年、つまり今年はどんな年にしたいか?とお互い語り合った。 私はその質問に対し、こんな風に答えたと覚えている。 「海の底で沈んでいたけれど、もがきながら、海面の光を求めて上へ上へと泳いでいくイメージ。…
ふわふわベレー帽
2015年10月26日のてしごと、「ふわふわベレー」。
つま先から編む靴下が完成して以来、編物熱は復活したが、自分でデザインしたものを編むまでには行かず。
そのリハビリとして、「こんな糸で編んでみたい」からの作品を編み終えた。
この帽子は、このベレー帽を編むために毛糸を一緒に買った
縫いもので生計を立てている友人の元に行くことになっている。
彼女とこの毛糸を買ったのは、2014年12月31日。
急に会うことが決まり、お昼ごはんを一緒に食べた。
手を動かすことの楽しさを語りながら食べたとんかつとシャンパンは、
今でも記憶に残っており、昨年を締めくくるのにふさわしい昼ごはんだった。
別れ際に来年、つまり今年はどんな年にしたいか?とお互い語り合った。
私はその質問に対し、こんな風に答えたと覚えている。
「海の底で沈んでいたけれど、もがきながら、海面の光を求めて上へ上へと泳いでいくイメージ。
最後にはその光を掴むために海面から顔を出し、新しい世界をみている」と。
それは朔日冬至にわが家にやってきた写真にとてもよく似た答えだった。
青を基調に、横たわる女の人と、水面、そしてそこを照らす黄金の光。
私はその作品にとても強い聖性を感じ、買い求めたのだった。
あれから10ヶ月が過ぎ去り、今年も残すところあと2ヶ月あまりとなった。
さて、私は彼女に話したように、海面を目指し、泳ぎ続けているのだろうか?
途中でもがき苦しんでいるのだろうか?
そして、海面の、その先にある光をつかめるのか?
その答えは神だけが知っている。
紅玉のジャム
2015年10月24日のてしごと、「紅玉のジャム」。 今年もりんごのシーズンがやってきた。 毎シーズン私は、年内は紅玉、年明けはふじを使って、 てしごと、といってもジャムだけだが、をしている。 毎シーズンは他のものにもチャレンジしたいと思っているのだが、 果たしてジャム作りの楽しさを超えるものがあるのだろうか?と なかなかそのラインを飛び越えられない。 ただ飛び越えられないと枠にはめてしまっているのは私自身なので、 飛び越えたいと思っているのなら、やはり飛び越えるべきだし、飛び越えられると思っている。 これは今シーズンこのラインを飛び越えることは、私の課題となっているのかもしれない。 と、ここまで書いていてなんなのだが、 やはり今シーズン初のりんごを扱うてしごとは、 ジャムを作ることを迷わず選択した。 紅玉はふじに比べ水分が多いため、煮る時間が短く済むので、気軽に扱えるのがいい。…
紅玉のジャム
2015年10月24日のてしごと、「紅玉のジャム」。
今年もりんごのシーズンがやってきた。
毎シーズン私は、年内は紅玉、年明けはふじを使って、
てしごと、といってもジャムだけだが、をしている。
毎シーズンは他のものにもチャレンジしたいと思っているのだが、
果たしてジャム作りの楽しさを超えるものがあるのだろうか?と
なかなかそのラインを飛び越えられない。
ただ飛び越えられないと枠にはめてしまっているのは私自身なので、
飛び越えたいと思っているのなら、やはり飛び越えるべきだし、飛び越えられると思っている。
これは今シーズンこのラインを飛び越えることは、私の課題となっているのかもしれない。
と、ここまで書いていてなんなのだが、
やはり今シーズン初のりんごを扱うてしごとは、
ジャムを作ることを迷わず選択した。
紅玉はふじに比べ水分が多いため、煮る時間が短く済むので、気軽に扱えるのがいい。
また紅玉だけがもつ酸味は野性味にあふれていて、
私を引きつけてやまない。
そして皮の色。
紅玉でジャムを作る時は必ず皮を入れて煮詰め、
ほのかな赤色を着色する。
これは私の中の決まりごとであって、
例えば皮を入れないというラインを飛び越えることは、
おそらくないだろう。
変えられないものを受け入れることと変えられるものを変えることと。
この二つのことのバランスをうまくとりながら、
私はこれからもてしごとと付き合っていくのだ、と思う。
マルメロのジャム
2015年10月13日のてしごと、「マルメロのジャム」。
10月の初めの僅かな間出回るマルメロ、見つけると必ず購入してしまうのは一体何故なのだろうか?
説明書きによると、マルメロは生では食べられず、加熱してようやく口に入れることができる。
そうしてまで食べたいという気持ちは一体どこから湧き上がってくるのだろうか?
おがくずがついたような表皮、フォルムはまるで洋梨のよう。
包丁をいれるが、ものすごく硬く、上から押し付けるように二つに割ると、
水気のない白い果肉が現れる。
皮をむいて芯をとり、イチョウ形に切る。
切れ味はまるでりんごのよう。
とろみをつけるため、まずは芯を煮る。
煮汁の匂いは、どこかで嗅いだことがあるが、洋梨でもりんごでもない。
あぁ、栗だ、茹で上がった栗の匂いのよう。
けれども出来上がったジャムは、
洋梨でもなく、りんごでもなく、もちろん栗でもない。
やはりマルメロのジャムなのだ。
思っていたよりかたいできあがりになってしまったので、
ホットケーキやパウンドケーキのフィリングとして食べようと思う。
そういえば、友人たちにマルメロの絵を描き続けた画家の話『マルメロの陽光』という映画を教えてもらった。
監督は『ミツバチのささやき』のヴィクトル・エリセ。
機会があったら観てみようと思う。
もしかしたらその映画の中に、私がマルメロに惹かれる理由が
ひっそりと隠されているかもしれない。
甘夏のパウンドケーキ
2015年10月10日のてしごと、「甘夏のパウンドケーキ」。
次の日からお世話になるおうちへのプレゼントにと、
パウンドケーキを久しぶりに焼いた。
あまりにも久しぶりに焼いたせいか、
手際が悪すぎて無駄な動きが多く、
いままでならスムーズにできていたところで、
なぜそこで?というところでつまづき、
あぁ、何をやっているのだろうと思ったことが多々あった。
唯一の救いは、味に響くことがなかったことか……。
不器用な私は、何事もやり続けることでしか上達できない。
作り続けること、書き続けること、そして撮り続けること。
いつの日か私がやり続けたことが溶け合って、
何かしらの形になればいいと思う。
幸いなことに長く続けることは得意だし、
うまくなりたいという気持ちがある。
そのために今の私にできることといったら、
やはりやり続けることしかないのだ。
ただひたすらにそう信じ、
五感を目一杯働かせ、
手を動かし続けよう。
つま先から編む靴下
2015年10月3日のてしごと、「つま先から編む靴下」。
この4月ごろから編み物熱がぱたっと切れた……。
昨年は編み物がとても楽しくて、
これを編もう、あれが編みたいと、
毛糸を購入したり、本を眺めてアイデアをもらったりと編み物三昧だったのに、
その熱がふつりと切れた。
編み物をする気分じゃないというより、編み物に対する熱意がなくなったのだと思う。
あれほど熱意を注いでいたものがぱたっと途切れるってこういうことかぁと、
どこかしら他人行儀な視線が私自身を見つめていた。
そんな私の編み物熱が戻ってきたのは8月末。
晩夏とは思えないほどの涼しさに、そろそろ編みたいなぁという気持ちが、
むくむくと湧き上がってきた。
新しいものを編むのもいいが、まずは編みかけをなんとかしようと、
再び編み始めたのがこの「つま先から編む靴下」。
2つ目のかかとまではすでに編みあがっていたので、
あとは増やし目をいれながらハイソックスに仕立てていく。
会社の昼休み、お昼ご飯を食べたあと、ただただ無心に編む。
思っている以上に編む速度が速い。そして心が無心になっていく。
そうか、ここ最近私の暮らしに足りなかったものはこれだったのか。
取り戻した大切な時間、またここから大切に育んでいきたい。
夏の思い出
今年の夏は、桃をたくさん食べた。
いつもの夏よりたくさん食べたので、
知らず知らずのうちに桃を上手に剥けるようになった。
好きなモノクロフィルムが見つかった。
写真をもっともっとたくさん撮りたくなった。
暗室に入った。
こんなテーマで写真を撮り続けたいということが見つかった。
街を撮るのが楽しくなってきた。
梅干しが美味しくできた。
味噌がいい感じで熟成されていた。
料理のレシピが増えた。
まだまだたくさんあるけれど、
どれも大切な今年の夏の思い出。
来年はどんな夏を私は過ごすのだろうか?